2015年8月6日☆ 恩師の訃報から
昨夜8月5日は恒例ですが、仙台七夕前夜祭の花火大会でした。また恩師、大森先生の命日でもありました。
そして本日6日の新聞で、高校教科書に「公共・22年度 近現代史も必修」と有りました。するとその知らせを待っていたかのように、我が師「阿川弘之」先生の訃報が載っていました。きっと阿川先生も学校で日本の「近現代史」を授業で教えることには「我が意を得たり」との思いでしょう。
これまで戦後70年を迎えてなお、日本は歴史認識の問題で、立ち往生していました。しかし、ついに戦後のタブーを破る事が出来ました。この「エポックメーキング」・時代を変える事が出来たのは師の示唆によるものでした。そしてこの成果を得たことは作家冥利に尽きます。まさに「神に感謝」です。
大森先生の命日は昨夜、同級生の一人ともに悼んだばかりでした。私は自分の師のことを「和菓子の恩」などと勘違いするほどの不肖の師弟なので、自分の拙い恩師への思いもどこまで伝わってたか・・・と言うところでした。
しかし自分がここまで来たのも両恩師の存在が大きかったのです。
大森先生との出会いは私達が中学に入学した年に、先生も志津川中学から転任してきて、初めて担当したクラスが我が一年四組、四学級でした。小柄ながら柔道三段、志津川中学では相当鳴らしたらしく、その武勇伝を滔々と並べましたが、その話もまんざら誇張でもなさそうで、私はむしろ好感を持ちました。
そんな先生とは、常にどこからでも見られているようで、突然「なんだ二三男」と怒り出すので、ぶつかり合って反発したかと思うと、話せば分かるので猛反撃するといつの間にか和解したりとの繰り返しで、いつも不安定で危なっかしい間柄でした。ただ、お互い真剣で魂ごとぶつかってくるのは分かっていました。
科学的な物ごとの考え方の基本を伝授されたり、少なからぬ感動を受けたりしました。しかし、時に尊敬したり、ただ煙たかったり、懐かしがったりとの複雑に揺れ動く教え子でもありました。そして今もって自分のなかで評価の定まらない人、それが大森先生でした。もしかして「棺を覆うて定まる」の人だったのかも知れません。
しかし、その師弟関係は後ほど書くことにして、今回は阿川先生のことです。
阿川先生の存在を知ったのは、その次の年二年一組、五学級になってからです。担任は剣道三段でのちに我が畏友、伊藤武蔵と巌流島の決闘をした、佐々木朗先生でした「それでは民主主義のルールに反するではないかぁ!」また、何か事が起きると「軽くパンチかぁ」が口癖の体育の先生でした。(巌流島の戦いはいつか書きます)(笑)
余談ながら、この次の三年生の担任の先生のメンツに、十一学級の空手三段の小池先生が加わるとは・・・
一体、わたし達はどんなジェネレーショーンだったのでしょうか(笑)
その二年生の夏休み明け9月頃に、体育祭があり盛んに応援練習をさせらる訳ですが、我が1ブロックのリーダーが九学級の節郎氏でした。そして、その時テレビで「雲の墓標」のドラマが始まり、「同期の桜」を松方弘樹さんが歌っていました。それを応援歌に加えて、みんなで何度も肩を組んで歌いました。
歌は結構ヒットして、気仙沼に出船の見送りなどに行くと、あちこちの船のブリッチから盛んに景気良く流れていました。この時、阿川先生の原作のドラマ「雲の墓標」に初めて触れたわけです。
すると翌年、三年生の夏休み前の期末試験の後の映画観賞で、鶴田浩二、高倉健、松方弘樹、佐久間良子出演の阿川弘之原作「あゝ同期の桜」を屋体で観るわけです。私はこの3日後かの夏休みを前にした7月25日かに「明日から柔道が出来なくなるので思い切り練習しょう」として、T君の柔道着を着て「ワキガ」が伝染りました。
大変な記念日です。(笑)
この日、「さぁー暴れられるのも夏休み前は今日が最後だぁ」と張り切って部室に行くと、どういう訳か私の道着がないのです。しょうがなく見渡すと3日位前に着て汗だくのT君の道着が干して有りました。そして脇の下は乾かずに青色のカビが生え、ワキガの臭いがしてました。
さすがに少し躊躇しましたが「まっ、いっか」とそれを着て最後の大練習しました。そしたら3日後に脇の下から異臭がしてついに「脇香デビュー」となったわけです(笑)しかし、そこからが大変になるのですが、でも当時はワキガなんて誰も気にしませんでした。
こうして怒涛の歌中生活も後半、体育祭も終わり秋めいた季節がやって来ました。そんなある日ひとつ下のJ子さんが、九学級の隣の図書室に入って行くのが目にとまりました。そして改めて「読書かぁ」と思い、九学級にはEさんがいて、その前を通るのは緊張ものでしたが、J子さんの跡に続いて、この時入学し三年目で、初めて図書室に入りました。
実は小学生までの私は結構読書をしていて、勉強こそした事がないのですが、多種多様の本を読んでいたので、博覧強記の博士と呼ばれていました、しかし、中学に上がる時ある人から「歌中という所はそんなところではおまへんでェ」と言われほぼ読書や調査は諦めていました。(ただ二年後の歌津魚竜の発見に繋がる、粘板岩・玄昌石の地質調査や独自の研究は続けていました)
しかし、それでは「何んぼなんでもひどいな」と思い三冊だけ読む事にしました。そのとき借りた中の1冊が阿川先生の「雲の墓標」でした。あとは堀越二郎氏の「零戦物語」とNASAの「ロケット開発の話」でした。
その「雲の墓標」の168ページかの以下の文章にずっと囚われ、作家になろうと思いました。
「いまこうして米国と戦争しているが、実は裏ではつながっていて、飛行機のプロペラだって、ハミルトン製の物を使っているんだ」
と言う、これから特攻で出撃する海軍予備学生の会話の部分です。この文章を目にした私はここで一度読むのを止め考え込みました。当時「鬼畜米英」とか煽って「特攻」まで繰り出している時に本当にそんな事が有ったのか?と言う大きな疑問です。物語は小説仕立てとは言え、ここが虚構ではこの作品の価値はゼロなのです。
私はこの事を満更、創作とも思えず「物ごとは表面的な現象を鵜呑みにするのは拙なく、その裏側を知る事が重要だな」と思い「もしかしてあの戦争は騙されていたのでないか」と言う思いが作家を志す動機になりました。
こうして生涯の阿川作品の読者となり「山本五十六」「米内光政」「井上成美」と読み進みながら、それと同時に独自調査して、その結果「自らの出世欲のため」国運を誤らせた「暗く、さもしい者達」がいて、その心情を知る事になるのでした。そしてまたそのために多くの国民が犠牲となった事や、叔父の戦死が悔やまれました。
あの、初版昭和40年発行で分厚く、テニヲハ以外は全部漢字、それも旧漢字という「山本五十六」を読んだのが高校の図書館でした。私の高校生活で教科書センターと並んでお気に入りの場所・空間でした。(教科書センターは草野先生のヤキモチで出入り禁止となりました)(草野先生とあと二人だけが知ってるエピソード)(笑)
また貸出カードを見ると私の前に借りたのが偶然、草野先生でした「やはり関心があるんだな」と思いました。
ただ、作品はほとんど漢文調それも旧字体で更に「てにをは」以外はほぼ全部漢字で、おまけに今のようにルビも振ってないので、一度読んでも7割くらいしか理解出来ず、二度目で読了という感じでした。
当時、図書館は校舎とは別棟で学食の横の通路を行くので、うどんダシの良い香りがして食べ盛りの身にこたえました。しかし建物は高原のチャペル風で周りには紅葉や楓が植えられて、窓辺に立つと外には桜や噴水も見えて中々情緒のある空間でした。
中に入ると美人の司書さんがいて、それを目当てにかよう訳ですが、また、冷房は有りませんが冬は自分らの教室のストーブより遥かに暖かいので、教室に戻らず過ごした事も何度かありました、しかし、別に叱られることもなく、いい思い出となりました。
阿川先生の作品を読んだ事がある方はご存知ですが、先生の文章はほんど漢文です。あるとき先生のエッセイを読んでいたら、まさに漢字だらけなので、読者もどうなんだろう、と思い試みに数えてみるとエッセイでも60文字中、そのうち平仮名はテニヲハだけで、わずか10文字しか有りませんでした(笑)
その影響で自分の初期の頃の文体も漢字多用で職場で報告文書を漢字だけで書き提出すると「よめね~よぅ」と言われ改める事にしました(笑) これが阿川先生から受けた「和菓子の恩」のひとつでした。
ところで弟子は師に似ると言われるそうですが、家人曰く「短腹のところ」「ジェントルマンなところ」「ガラの悪いところ」が似ているそうです。阿川先生の文壇でのあだ名が「ボッ」と火が着き、すぐに熱くなるので「瞬間湯沸かし器」で、大森先生も「大短腹」の怒りん坊です。
しかし わたしの短腹は先生方の「遥か彼方は相馬のお空」で足元にも及ばず、むしろ日本でも屈指のジェントルマンで、そして、決してガラも悪く有りません。
で、わたしよりガラが悪いのは大森先生でしたが、しかし、多分、まぁ、階上中の校長もなさったの方なので「お前には言われたくねぇ」と、また例の如く目を三角にして怒るのでしょう(笑) とても不思議な両師との出会いでした。いつかまた書きます。
ちなみに英語の草野先生も柔道家で短腹でした。三人とも一刻者でしたが、先生も鼎の校長になり、さらにリアス・アーク美術館の館長に招かれた後、今年の春が最期と聞きました。合掌
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