2016年4月29日☆五月の 連休からルーツの事など

今日は昭和天皇の誕生日という事で、いろいろな事が思い浮かび上がります。約二十年前のこの日トンペイの片平キャンパスの桜が満開で観に行きました。その 帰りの道すがら、今日から本格的に小説を書こうと思い定めました。そして次の日、及賢の事故の連絡が入り、連休のさなか弔いに行った訳です。 賢ちゃんという人は不思議な人で、あの真面目くさった顔で、とんでもない歌中ばりのジョークを言って、私を笑わしてくれるのです。そして、時々、信じられ ないような事件に加わってたりします。私と一緒の時はそんな事はないのですが、あとで「いゃー、実はあの時は賢ちゃんも居て」となるのです。 修学旅行で3月26日、京都日程1泊目の夜でした。私はそんな真面目な賢ちゃんを巻き込みたくないので、彼に告げずに一人で外出しました。目的の場所はG・S「ザ タイガース」の沢田研二さんが京都時代に出演していたゴーゴー喫茶の取材のためです。 当時、ゴーゴー喫茶に出入りすると停学とかの時代です。そのため賢ちゃんに声をかけずに一人で出かけたのです。ところが旅館に帰り経緯を話すと「なぜ声をかけてくれないんだ」と彼はご立腹で随分なじれました。 それで二日後の大阪の阪急ホテルでの外出には、先生方から禁じられていたにも拘らず「松田組」の事務所を見に一緒に出かけたのでした。 その帰り道、天神橋の途中から下の中之島公園に降りて、カップルを冷やかしたりしてライオン橋(難波橋)の途中に上ると、そこには運命的な偶然が待っていました。それで彼には一足先に帰ってもらい、私達はまた下の中之島公園に降りました。 で、ホテルに帰ると賢ちゃんがいつになく真剣な顔しているので「大丈夫だろう、誰にもバレてないだろう」と確認したのです。と言う訳で、皆に頼りにされる 賢ちゃんは、いつも自由に行動する私をカバーしてくれて、そして、どんな難し事を訊いても常にユーモア混じりの即答をしてくれて、楽しくかつ有り難かった です。合掌 そして五月というと「田束山のツツジ祭り」 です。標高512mの山頂付近のツツジが満開になって、下の国道45号線あたりから眺めると、まるで赤く燃えてるように見えるのでお祭りになりました。ただ最近、気仙沼市の徳仙丈山のツツジも売り出し中で、一層有名になりました。しかし観光としてのオリジナルはこちらです。 まっ、文化的地域ナショナリズムを持ち出しても始まらいのですが、この歌津の「田束山」は日本書記にも「道嶋気仙麻神社」と登場する高名な山です。元来は 平泉の藤原氏が開祖の神社と言われ、最盛期には山嶺に四七の僧坊があったと伝えられています。それ以前は山岳信仰で修験道の中心地だったようです。(高野 山のような) そして、小説「風に吹かれて」 にも登場しますが、山頂には十二基の塚があり、ずっと謎のままでした。しかし1971年に発掘調査があり、その発掘に私も立ち会っていました。ちなみに 「歌津」と言う地名はこの山頂から見て東南の方向で、十二支の「卯」と「辰」の方角に広がった土地という意味だそうです。(もう一説も有り) そして、注目すべき発掘品は平安時代後期に埋蔵された仏教の教典でした。それは高さ30cm・直径10cmほどの青銅製の円筒に入れられた法華経のお経で した。その教典はこの時期に仏教界に一大影響をあたえた「末法思想」によるもので、大事な仏教の教科書を十二の経塚に埋設したものでした。 ※「末法思想」とは仏教の「世の終わり」の事で、大事な教典を埋蔵し十万年後まで保存する事。 当時、仏教界では釈迦入滅後、正法時代・像法時代・末法時代へと変遷するとの教えがあり、ちょうど平安末期がその「末法」の時期にあたり、日本全国の寺院 で教科書を埋設する行事が行われました。それを田束山上に有った寺院でも、教えに従い実行したようです。ちょうど仏教界が「鎌倉仏教」に代わる時期にあた ります。 もともと、この田束山は平泉の「藤原氏」が厚く信仰した山岳でしたが、その地方名にも藤原氏の名残りがあり、「本吉」という郡名も藤原の元良から来ていま す。「藤原元良」というのは、かの「陸奥の歌枕」岩沼の「武隈の松」の和歌を残し、さらに艷福家(モテ男)で第四の光源氏にあたる超有名人です。 『歌枕・武隈の松』(岩沼市) 「植えし時 契やしけむ 武隈の 松を再び 合い見つるかな」・三品 兵部卿 陸奥守 藤原元良(歌人) 藤原の元良は陽成天皇の第二皇子でしたが、藤原氏に臣籍降下して、陸奥守で二度みちのくに赴任したようです・その縁で平泉や本吉郡が藤原氏の荘園になった ようです。ただ、のちに平泉の藤原氏が都中央から独立した形の時期があり、年貢の徴収と送達の事で、京の藤原氏と長い間もめていた時期もあったようです (前九年ノ役の遠因か?) 和歌といえば鎌倉から歌津の領地に移住して、三浦家の本陣(仲向)を置いた「名足」にも、平泉に都落した「源の義経」が潮干狩りに訪れたさいに残したと言う句もあります。 九郎判官の句 「樽甁子 ならべていわい 濱の名を」従五位下 検非違使 伊予守 源九郎義経(武将) という句です。しかし、これが、和歌の上の句なのかどうか、この原典の『安永風土記』が編纂された頃は、すでに下の句が残ってなかったようで、以下のように記述されています。 右読人源義経公奥州御下向之砌当村ノ内名足濱而潮干御遊覧御酒宴之節御詠歌被遊候由往昔ハ上ノ句下ノ句共ニ覚居候者茂有之を以御書上仕候右御酒宴被遊候場 祝ノ濱申右次は樽ノ濱上ハ甁子ケ峰と申所ニ御座候右御歌之句意ニ倚リ名付候共又ハ右濱之名ニ寄セ御読被遊共申伝候事。(安永風土記) で、私が下の句を作るとこうなります。 「名樽濱とは 祝う瓶子」(ナタリハマトハ イワウチョウシ)三浦二三男 歌人 ついでに征夷大将軍 源の頼朝の愛馬「池鵜」の塚(馬骨壇)も有ったそうです。 以上、『宮城縣史』(安永風土記)や三浦家の伝承から、連休とルーツの話でした。 さらに 御製 津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる 平成24年正月歌会始の儀 題詠「岸」 今上陛下 という訳で歌津には美味しい山海の幸があり、太古の「歌津魚竜」そして、ナウマンが発見した「皿貝貝塚」さらに「平安時代」の遺跡や現代の「華の歌中伝説」(笑)まで、豊富な伝説や話題がゴロゴロで、さらに私の企画・発案で作った「歌津・民俗資料館」と「平成の森公園」までも有ります。ぜひ、一度訪ねて みて下さい。 更にちなみにで「満海上人の墓」や、かつて武蔵坊弁慶の佩刀(七つ道具の一つ)で、月山丸と言われた大刀も魚竜館にエキストラで展示して有りました。さらに安倍首相のルーツである安倍の貞任の「貞任山」までもが有ります。 貞任は武将で岩手・厨川の柵主ですが、多賀城に勤務時代「思わくの橋」というロマンチックな「「歌枕」を残し、恋と和歌にも生きたモテ男だったようです。そんな伝説もあり歌津はこれまで数々の「歴史的栄光の人々」にゆかりがあったり、世界的な発見や研究にも貢献をして来た場所でもあります。 いちど訪ねてみてそんな「栄光の歴史」にあやかるも良し証言者になるも良しです。「聖地巡礼に確定」!                                     ナョナルジオグラフィック

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