2010年7月23日☆ 「相馬野馬追い祭り」が始まりました
ルーツの話
今日から恒例の「相馬野馬追祭り」が始まりした。期間は25日までの3日間で長丁場です。
以下に書きますが、祭りは起源がはっきりしないほどの、古くてトラディショナルなものです。こちらにはその伝統にかなわないと思うせいか、以前から「野馬追いを二度見るものは○○だ」という、負け惜しみみたいな言い伝えがありました。
確かに毎年祭りの始まる頃と、梅雨明け、そして、土用の丑の日「うなぎの日」が重なり、なんで、こんな蒸し熱い時期にと訝っていました。ただ、モンゴル草原にも「ナーダム」とか言ってこの時期に夏祭りがあり、同じような競技を未だに続けているので、ルーツが同じモンゴル高原の日本の武士も暑さなど関係なく、この時期に運営されても何ら不思議がないかも知れません。
このモンゴルの夏祭りのハイライトは10代の少年少女達による草競馬です。およそ40キロメートルをゴール目指して駆け抜けます。相馬にも有りますが、こちらは騎馬武者が1200メートルの雲雀が原を駆け抜けます。それでも、近くで観ると中々勇壮です。
そして、相馬氏と言えば、我が家と同じ桓武平氏の流れを汲む者、まして、明治維新で碌を失い、いまや、かつての自分の領地に「馬場」と言う地名を残しただけの我が家と違い、彼らはいまだに騎馬民族の伝統を守り残している事は、ほぼ奇蹟に近いと思います。
これと同じくらいの歴史と伝統を持ってるのは、今では英国の王室ぐらいであろうと思われます。そもそも、相馬氏も我が家も坂東八平氏といって、桓武天皇の孫「高望王」が都の貴族階級に残れず、臣籍降下になって、天皇の臣下になり地方官「相模の守」になって下向してのが始まりでした。
なぜ、貴族、公家になれず、武家になったかは簡単で、その訳は桓武天皇の出自にありました。本来、桓武天皇は光仁天皇の皇太子、長男ではなく、まして、母親が「高野新笠」という側室腹で、「東の漢氏」「西の文氏」という渡来系出身の身分だったので、そのため、それらの子孫は皇室の慣習で長く皇族に留まれず、やがて、臣下いう身分に下り、地方の国守などになって赴任していくのが恒例でした。これを「臣籍降下」と言います。
「東の漢氏」というのは「ヤマトのアヤウジ」と読み、三世紀頃、仁徳天皇が「珍王」と名乗りまだ、中国東北部山東地方にある安東市の都督、兼、安東将軍の地位にあった時、それに付随する外交官、駐留大使などの末裔が、後に日本に「倭の五王」が誕生すると、中国から一緒に渡来し「阿知使主」という称号を貰い、 大和の平群に住み、元々中国の宮廷官僚の末なので、文物にも明るいので、日本の朝廷でも官吏として仕えました。
一方「西の文氏」というのは「カワチのフミウジ」と読み、高句麗の好太王が百済を攻撃したので、日本が加勢した時、一緒に日本に亡命し河内に住んだと思われる帰化人の末です。
ちなみに「阿知使主」とは「アチのオミ」と読み、元中国の外交官の末裔なので、「あちらの使い主」外交官という意味です。
この中から後に女官となり朝廷に昇り、やがて天皇の妃になったりして、日本の皇室と深い姻籍係を結び、後の武士階級の始祖となる人が出るのです。多くは関東に赴任して、坂東八平氏のもとになる。三浦、千葉、横山、土屋、土肥、二階堂、秩父、朝比奈氏がその関東武士団の始まりです。中心地は相模国の三浦半島の鎌倉や現在の小田原市が首府です。
当時、663年の白村江の戦い以来、大陸での戦闘がモンゴル式の騎馬戦が最新の戦闘法なので、新羅からの捕虜を北陸道、東海道に住まわせ、その騎馬での戦闘様式を家伝として、伝え残したのです。そのため騎馬戦の得意な「武田の騎馬隊」の先祖が新羅三郎義光なのです。彼は源氏の棟領「源ノ頼義」の三男で悪源太義家の弟です。
また、義経が騎馬戦を得意としたのも、先祖が同じ源氏だからです。それで、後に徳川家康が「海道いちの弓取り」「源氏の棟領」などと名乗ったのはここにルーツがあるからです。その時の軍事訓練を、千葉氏の流れを引く、相馬氏も当時の関東での戦闘方式、騎馬戦を取り入れその訓練が野間追い行事として、現在まで引き継がれたのです。
次に身分制度ですが、臣籍に降下して地方官になる者の位は普通、国守の子孫は生まれた時から、正妻の子、長男は、「六等官」を貰い、三年置きに「都」に上り御所の務めを果たし、成績が良ければ、後に地方の「介」の位をもらい、国守の「次官」に任命されます。
ちなみに、当時から身分制度(公務員制度)は大化改新で制定され、約五十年後に引き継がれた大宝律令にそのまま踏襲されます。中身は現在の公務員規則とほぼ変わらず同じです。まず、役人(公務員)になるには、天皇の子孫が優先され、貴族、公家、地方官となります。その序列はその時代の天皇に血筋が近いほど優遇されるは何時の時代も同じです。これは明治政府も引き継ぎ、一部終戦まで続きました。
で、位階(身分)は1等級から8等級まであり、現在の公務員が初級公務員になると8級から始まるのとそのまま同じです。受験資格は貴族の子はほぼ無条件で5級から始まり、地方官の子孫は国守の長男は6級から始められます。
それ以外や身分の無い者は地方では、国分寺や観音寺という官寺に入学して2~3年勉強して、試験を受けて、合格すれば8級から始められます。都では冶部省というところで、貴族の出自や身分管理をしてますので、ある年齢になると今の学習院と同じ学校で学びます。これは大学までありました。
つまり、古代も中世も役人になるには、多少の読み書き、教養が求められました。ちなみに相馬氏の祖先の一人と言われる、平将門は相馬の小次郎将門といって、長男でなかったので位階が無く(公務員として認められず)、自から反乱を起こし成功して関東天皇と名乗ったようです。
また、就業規則も現在に似ていて少しだけ違うのは、現在は父母の忌引き休暇は10日ですが、当時は6ヵ月間喪に服しました。病気休暇も現在とほぼ同じです。
また、お役所勤めは天皇の子孫が優先で、中央政府は高官が殿上人と呼ばれ御所に上がれ、位は五等以上で、公家や、貴族の子孫はここから始められ、それ以下は生涯御所の板敷きに昇れず、ずっと下働きで固定されてます。清盛も義朝も元来はこの下級の侍人です。
それを彼らは力ずくで、武家階級の身分を上げて、平ノ清盛は太政大臣に、源ノ頼朝は征夷大将軍になって殿上人になりました。ここから、武家が政治に関与出来る時代が始まりました。
ちなみに征夷大将軍になるには源氏でなければならないとは、騎馬民族の末裔でなければならないと言うことです。同じ渡来系でも官僚系の東漢氏や百済系出身者は関白系に進みます。そのため平ノ清盛や氏素性のはっきりしなかった豊臣秀吉は関白太政大臣になって政務をとりました。
ただし、秀吉は木下という苗字が新撰性氏録にも無かったようで、一旦、藤原氏の養子となり、あとで、豊臣の姓を貰いました。そして、源氏ではなく、藤原氏なので征夷大将軍になれず、公家の藤原氏ということで、関白太閤豊臣秀吉と名乗ったのです。
一方、モンゴル系、新羅系の騎馬民族系の渡来人が政府を持つ時は幕府を開かなければなりません。バクフとは幕で囲った臨時の政冶所ということで、(モンゴルのパオ)からきていて、どこかに派遣軍として送られた軍隊が、制圧した地域を臨時に統治する権限を中央政府から与えられ、軍政と民政を司る形態です。これも騎馬民族の末裔の証です。
つまり、その軍のキャンプ地でテント(幕屋)を設営して征夷大将軍がいるところが臨時政府の幕府で、源ノ頼朝が開いた鎌倉幕府が始まりで、のちに徳川家康も源氏の棟領ということで江戸に幕府を開きました。本来であれば京都か、近畿で政治を行わなければならないのを種々の理由で(公家、貴族からの干渉を嫌がって)自分の領地でご政道を行いました。
たぶん、乗り越えられない身分制度が嫌だっんでしょう。貴族や公家はやがて教養がどうの、儀式どうの、出自がどうのと武士階級を軽んじるでしょうから。無理もないでしょう。
それで、北面の武士と言われた、「西行」こと佐藤則教も平の清盛や源の義朝も同じ6等官で同僚として働いていました。ただ、西行こと佐藤則教は和歌の才能が皇后に認められ、彼女と恋に落ちます。しかし、かたや、天皇の妃、殿上人、自分は御所の縁側にも昇れない侍人。
その身分制度が嫌になり、役職も家柄も家族もすて、(脱サラ)して歌詠みとなり出家しました。そして、後世、歌人としてその名を残します。彼は皇后と相思相愛だったようです。彼女の気持ちが分かったので、出家したようです。閑話休題です。
で、北面の武士とは、天皇が紫辰殿から南の前庭を向いて儀式を行うとき、庭の南方から北の天皇に向かい立ち並ぶ警護の武士(北側を向く)のことを言います。6等級以下の武士団で清盛や西行、義朝の身分です。
ちなみに、左右に侍るのを近衛の武士団と呼び5等級以上の侍が付きます。(公家や貴族の武張った子弟がなる)もので中国の制度を真似ました。
それで三浦氏は、関八州の代表で特別に「大介」の位をもらい、都からの赴任する国守が留守な時は、三浦の大介に中央からの命令書が来てその命令に従って、行政事務、軍事事務を執り行うことになってます。
それは今の時代の国家公務員の身分制度と同じく中央官僚と、地方勤務の公務員との関係と同じで位階制でもって命令系統は決まっていました。
その恰好の例が、頼朝に来た「平家追討の院宣」です。本来であれば、三浦の大介に来るはずの「院宣」命令書が頼朝に来たのは、彼も都育ちの六等官の「介」ですが、義朝の長男、源氏の棟領にあたるという事で多少位が高いのです。
従ってこのような命令書が頼朝に来ると、在地の三浦の大介は頼朝に従うのは公務員として、当たり前の行動なのです。そのため、後世から見ると同じ平氏の坂東武者が頼朝に従って、平家を討ったという理解できない矛盾が生まれるのです。
話を元の武家のルーツに戻しますと、同じく渡来系に663年の白村江の戦いの後に、日本に来た系統があります。「白村江」の戦いとは、もともと、百済の下におかれていた新羅が、中国が六国時代と言われ混乱していた時期に反乱を起こしたのを、日本と中国で挟み討ちにしょうとして失敗した戦いでした。
この時に日本に亡命した、百済の王族と役人、また新羅兵の捕虜も、やがてこの国の開拓者に組み込まれ、やがて地方の豪族と言う出自の不明な武士団となり鎌倉時代以降武家勢力と言われ台頭します。従って地方の豪族とか言って出自のはっきりしない武士階級の多くは、元々「屯田兵」の末で、時間とともに大化改新の「班田収受」を形骸化し、土地や、領地を私有化した武家集団です。
このうち、同盟国だった百済人の有力者は、その朝鮮でのスキル等が買われ、日本の朝廷にも出入り可能となり、「百済の小錦」などの称号も与えられ、やがて、「東の漢氏」と同じく、朝廷に妃などを送り込み、その子孫も多くは関東、四国、山陰の国守として派遣され後の武士階級の元になり、源平の合戦のような氏の乱れたややこしい争いの元となるです。
一方、この時期に一緒に渡来した、新羅系の捕虜の多くも<先ほどの武田の騎馬軍団など>関東や北陸の開拓農民「屯田兵」として送られ、独立した生活をおくりながら、蝦夷対策の北方の駐屯地勤務となります。遠くは今の岩手県胆沢地方にも送られ「アテルイ」などが「浮酋の長」と呼ばれましたが、「浮酋」とは捕虜という意味です。
で、アテルイを降した坂上の田村麻呂「征夷大将軍」の称号は「蝦夷」エゾ、エド、アイズ、等と(同意語)で、これらを制圧する「征夷」で、元々「蝦夷」エミシ対策の「屯田兵」(地方軍)の上官で、中央から派遣される軍の司令長官と言う意味です。
語源は中国で、安東将軍等と呼ばれる称号と一緒で、位は違いますが軍事用語で派遣軍に使われる同じような名称です。
ちなみに、中国から見て東の方向の民族は「東夷」で西は「西戎」北は「北荻」南は「南蛮」と呼び、外国人として区別してました。日本は「東夷」の蝦夷で、制度をそのまま真似ました。
もとい、それで関東への開拓移民もめどがつくと、更なる食料増産のために722年に「100万町歩墾田開拓事業」と言う「詔」<中央政府の命令>が発せられ、近畿や北陸、及び関東など、日本全国から東北地方に移民を集め、それ以前からあった仙台南郊の「郡山官衙」に引き続く、軍事と政治の城を築き、東北地方を統括する、「陸奥の国府」「多賀城」を置きます。そしてこれが関東以北の一大拠点「遠の御門」「多賀城」と呼ばれる時代になります。
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